沖縄市に足を運ぶという想定は、訪沖前の自分のアタマの中には一切描かれていなかった。
沖縄に詳しい知人にに食事に困らないおススメの町はと尋ねると、浦添か沖縄市、と。
沖縄市の存在は知っていたが、それ以上の知識は何も持ち合わせていなかった。
調べると、チャンプルー文化、ゲート通り、嘉手納基地と、ここまで足を運んだ那覇、石垣、名護とは一線を画す空気を画面越しにも感じ取ることができた。
沖縄の土地土地を自分の足で見て回るのがこの訪沖の目的である。
ここに行かずしてどこに行くか、沖縄滞在最後の地として沖縄市、コザの町を選んだ。
目次
1.基地の存在とチャンプルー文化2.アーユルヴェーダ
3.おわりに(基地返還のこと)
基地の存在とチャンプルー文化
“チャンプルー文化”という言葉ほど、言い得て妙、という日本語がしっくりとくる言葉は無いのではないかと思う。
嘉手納基地の存在もあり、米国をはじめとした多種多様な文化圏の店舗が軒を連ねるのが”チャンプルー”(ごちゃ混ぜ)であるというのである。(正確には、エイサーなどのアジア圏文化も含めた”ごちゃまぜ”文化のことを言う)
これが例えば横須賀となれば”ネイビーの町”であり、それをごちゃ混ぜ、チャンプルーだと呼ぶものはまず居ないであろう。
コザの町に着いて、ステーキ店、定食屋、そば屋と、どの土地でも見かける店々が目に飛び込んできた。しかしゲート通り(嘉手納基地のメインゲートから伸びる通り)に近づくと、メキシコ料理、インド料理、タイ料理、ピザ屋ケバブ屋と国籍のバラエティが飛躍的に増える。
そんな中、アメリカナイズされ、往年を偲ぶ雰囲気を漂わせているゲート通りを進んでいくと、横道にパッと昭和の定食屋がたたずんでいる。
タトゥー店が風景に馴染む町というのは日本にまず無いように思われるが、そこから、数十歩横道に入れば畳にあぐらでチャンプルーをむさぼるような食堂に辿り着けてしまうのである。
西海岸の町並みに昭和の日本が迷い込んでしまったような、これがチャンプルー文化か、と唸ってしまう瞬間であった。
アーユルヴェーダ
町に到着したその日に入ったのはインド料理店。
バス停近くのお店のメニューを覗き込んでいたら、バス停で煙草を吸っていたおじさんに声を掛けられる。ぎょっとしたが、正体は店主のおじさんだった。少しお値段は張ったものの、しばらくインドカレーも食べてないしな、と入店。
おじさんは人当たりの良いお喋り好きな方で、食前食中食後とずいぶん色々な話を聞くことができた。
奥様との馴れ初め、なぜ日本に来たか、なぜ大阪から沖縄に移転してきたか等々てんこもりに。
ただ、沖縄探訪という意味で書くならば、興味深かったのは店舗の客層や米軍のコロナ施策についてであろうか。
コザの街に移ることに決めたのは、米軍人の客を当て込んでの事だという。
カレーは一食1000円から。日本人ももちろんアクセスできる立地にはあるが、7,8割は米国人客だという。
観光客は?と尋ねると、そもそも沖縄市は観光の町じゃない、と。
テイクアウトの客が何度か食事中に訪れてきた。米軍のコロナ対策として、屋内のレストランでの飲食は禁止されているとのこと。
観光客でなく米軍人(定住者)がお客さんならばコロナの影響もそこまで大きくないのでは?と思ったが、店内での飲食がNGというのはそこそこにダメージが大きいとの説明だった。
カレーはどうかといえば、美味。東京ではパキスタン人の営むインドカレー屋なるものが林立したりもしているが、正真正銘インドカレー。
沖縄市に足を運ぶことがあればぜひ再訪したい。
おわりに(基地返還のこと)
コザの町(沖縄市)にとって嘉手納基地の存在がどれほど大きなものか、この滞在を通じて身をもって感じることができた。
米軍基地の返還が強く叫ばれているが、その米軍基地があるからこそ生まれる文化があり、それを地域の”良さ”としているところもあるのである。
日米安保により外敵から守られているとも言える日本にとって、領土内に米軍基地を抱えることは不可欠なことであろう。
しかし、それは沖縄に基地が集中している現状を許容してよいという話ではない。(名護での経験に繋がるが、かように内地人である私が言っても、言葉に実が詰まっていない虚しいもののように聞こえてしまう)
しかし基地が返還されれば、その存在が生んだ文化、ちゃんぷるー文化は失われてしまうのだろうか。
さまざまに頭を巡らせる、よい機会になった。