物(モノ)に支配され主体を失った生活

なるべくリズムやモチベーションに波のない生活を送ろうと心掛けてはいますが、それでもどうしても気力の落ちる時期がやってきます。

やる気に満ち満ちた時期とネガティブ真っ盛りの時期のあいだにある差(というか精神を刺激する作用)は一体何ものかと探ってはいますが、道半ば。

昨日今日とやる気が出ず集中力も続かずと辟易していたんですが、どうやら、物事を決した(行動を起こした)原因を主体としての自分自身の中でなく外の世界にこじ付けてしまうような事態になると、日常の活動に身が入らなくなるようです。

5日ほど前から花粉症が限界突破しましてくしゃみ鼻水が死ぬほど出るんですが、どうしても頭を過(よぎ)るのは「”花粉のせいで”○○ができない、集中できない」というような考え。

物事に集中する主体は自分自身であり花粉は一外的要因に過ぎませんが、主体の存在を棚に上げ、出来ない理由を花粉に擦(なす)り付けてしまうのです。

このような考えに憑りつかれると、日々の生活が少しずつ疎(おろそ)かになってきます。

そんなこんなで迎えた今日。5日ほど前にAmazonで注文した本が届くであろうと予想し、それらを読破することを目標としていました。

しかし、荷物は一向に届かず。

何をするにも精が出ずにサッカーゲームをしていたら一日が終わってしまいましたが、その理由は「荷物が届かなかったから」。

荷物の届く届かないが生活の質に影響を与えるようなことは避けるべきですが、自らの決定を「(外的要因に)汚された」ことをやる気が出ない理由にこじ付け、自堕落な一日を肯定してしまった自分が居ります。

幸福な人とは、それがどのようなものであれ、現在あるもので満ち足りている人、今あるみずからの所有物を愛している、みずからの所有物の友である人のことなのである。(『生の短さについて 他二篇』セネカ著(岩波文庫))

今あるみずからの所有物を愛しそれに満足することができ、外的要因に左右されない強い主体を持った、必ずしも多くを望まない人間になりたいものです。


(2017/3 Sintra-Portugal)

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